第1回   カレリンを追え

 私の持論ですが、人間のスタミナを司る汗腺が生後数日間の環境で決まってしまうように(←暑いタイで生まれた子は、たとえ両親が日本人でも生後すぐに涼しい地方に移住しても、タイ人並みの汗腺を備えて育ちます)、人間の性格は生後三年間の育てられ方で決定し、人間の人生の方向は十代後半にどんな物と出逢ったかでほぼ決定づけられてしまうものです。
 まったく結び付きのないアメリカ・ソ連・ヨーロッパで、ある時期一斉に宇宙飛行を目的としたロケットの開発が始まった原因は、彼ら研究者がみな『月世界旅行』に興奮した少年時代を過ごした世代であった事であるのは有名な話ですし、現在日本のエンタテインメント小説界が様式美と伝奇ロマンの皮をかぶったミステリで覆い尽くされているのは、1970年代後半のあの圧倒的な横溝正史=金田一耕助ブームの洗礼を受けた少年少女たちが今、作品を送り出す世代になったという事とほぼイコールの現象であるわけです。
 少年少女期に何に出逢うか、あるいは少年少女期に周囲でどんなものが隆盛を極めていたか。
 思春期を明治末期に迎えた子は文学青年となり、昭和初期に迎えた子は映画青年となり、昭和中期に迎えた子は軍国少年となり、昭和後期に迎えた子は漫画家や音楽青年となり、平成初期に迎えた子はゲームクリエイターになり、平成中期に迎えた子はボーイズラブの担い手になる?というのは「運命」という名の必然でもあるわけです。
 そんな周囲の環境の特徴の中でも大きくものを言う「物量」という基準において、マンガは日本でとてつもない影響力を誇り続けてきました。端的に言って日本のサッカー文化は『キャプテン翼』が、NBAブームは『スラムダンク』が生み出したものであることは疑う余地がありません。日本のF1ブームもジャンプがスポンサーになっていた期間に瞬間最大風速で駆け抜けて行きましたし、驚くなかれあの横溝ブームも実は『八つ墓村』が影丸譲也の手でマガジンに漫画連載されたことが大爆発の発端であったことが今頃になって明らかにされています。(←ガキだった私には誰も教えてくれなかったぞ!文化人というヤツは一体今まで何を書いたり語ったりしていたのだ。)宮崎駿も「漫画やアニメはサブカルチャーって言い方するでしょ。もうアジア圏ではとっくにメインカルチャーになってます。アニメは往年の力をすっかり無くしてマニアだけのものになっちゃってますけど、マンガ的な思考パターンは実際に読んでる読んでないに関わらず、今の日本のあらゆる分野に及んでますね。本当に国際的な競争力のあるものを作ろうと思ったら、そこからいったん離れないといけないんですけどね」などと語っています。国際競争力の問題は別にしても、週に数千万の規模で多感な青少年に届くコミック文化が一国レベルのメンタリティを動かすのはある意味当然の現象ではあるのでしょう。

 さて、そんな漫画のコマの隅をつついて情報化する作業(のようなこと)を『からくり』にも使ってみるという無用な試みであります。今回は単行本で言えば18巻 119ページ、「真夜中のサーカス」との最終決戦終盤でルシール用のからくりを空輸するヘリの中が描写された2シークエンス目。ジョージに同乗した阿紫花が自分の思い出を語っている時にシートに広げられていた本、『カレリン写真集〜とまどい』というモノに注目してみましょう。
 その「本」の表紙の大きさが単行本で7ミリ四方。恐ろしげなオッサン風の顔とおぼしき絵がある程度で、突っ込み所を心得た藤田ファンの間でも「このカレリンとは何者?」という声が上がるのは当然、かつそれを答えられない人が多いのもまた当然。シェイクスピアから黄金時代のハリウッド映画まで衒学豊富な藤田ワールドにおいては何が出てきても不思議はなく、そのスジの人間でない限り分からぬことも多いでしょう。あの数ミリ四方の絵を見て「アリナミンAのCMに出てくる人みたいなもの?」といった方がいるそうですが、それはもう恐るべき慧眼としか言いようがないという事態の証明も兼ねて、謎の「カレリン」の正体を少し解説してみたいと思います。

 アレクサンドル・カレリン。発音によって「アレキサンダー」と表記されることもあるロシア人です。1967年9月17日ノボシビリスク生まれ。25歳で国軍少佐、28歳で税務警察大佐およびロシアレスリング協会副会長に就任。31歳で体育学アカデミー最高峰のサンクトペテルブルグ・レスガフトで修士号を取得、また体制の変わったロシアの国会議員に立候補、見事選出されます。しかし彼の名を世界に轟き渡らせたのはこうした履歴ではなく、14歳から始めたグレコローマン・レスリングにおける驚異的な実績によるものでありました。
 国内のライバル争いの方が国際大会よりハイレベルと言われた旧ソ連代表の座を勝ち得た1988年以来、最重量の130キロ級において、ソウル・バルセロナ・アトランタの三大会でオリンピック三連覇。それも三大会とも全ての試合で1ポイントも取られぬままの完全優勝。自分の下半身を使っても相手の下半身を攻めてもいけないグレコローマンレスリングは何よりも腕力・体力がモノを言う競技で、およそ4年に1度のオリンピックで連覇など狙える種目ではありません。それがカレリンの場合、88年から99年までオリンピック・世界選手権・ヨーロッパ選手権の全ての試合で完全優勝、引き分けのないレスリングで12年以上無敗を続けてきたという、記録だけを挙げても人類史上類を見ない怪物中の怪物なのです。
 梁師父の言葉ではありませんが、格闘技の世界においても「本物」の寿命は短いものです。長い時間をかけて磨き上げられた精緻を極めた技術が老いと共に、ある日突然見る影もなく消え失せるというのは実によくある光景でしかありません。先述のようにレスリングは肉体的な若さを極度に求められる競技であり、しかも近年のルールは少しも休むことなく1ラウンド3分を攻め続けねば反則を取られるという厳しいもの。試合中は心拍数が200を越え続けるという「スタミナ的に最も過酷な格闘技」と言われるスポーツであり、無敗の王者がある時を境に、いともあっさり若者に土を付けられるのが当然の宿命と認識されているものなのです。
 しかしカレリンは勝ち続けた。90年の世界選手権では強豪相手に全試合を1ラウンドでフォール勝ち(!)。93年の世界選手権では初戦でロッ骨を折るアクシデントに見舞われながら残り試合をこれまた全勝して優勝。普通の選手ならとっくに選手生命が終わっている96年のアトランタ五輪でも遂に相手に1ポイントも取らせることなく優勝。対戦したアメリカ代表が「もはや人間でカレリンに勝てる相手はいない。霊長類最強であるゴリラにレスリングを教えて戦わせる以外に勝つ可能性のある相手は出現しない」と語った言葉でオリンピック史における「カレリン神話」は確立したのでした。

 しかしカレリンは数字上のヒーローとして世界に名を残してきたわけではなかったのです。
 まずその圧倒的な外観。
 私は幸運にして88年、カレリンの国際マッチデビュー戦となったソウル五輪の1回戦をテレビの生中継で見ていたのですが、「うわっ、プロレスラーが出て来た!」と驚いたものでした。生まれた時に既に5500グラムあったと言われる体は 192センチ 130キロ、「キングコング」「シベリアの巨熊」などと呼ばれる巨躯にビルドアップされ、しかもアンコ型の相撲取りタイプが多い最重量階級には珍しい逆三角形の見事な筋肉質。さらに本人は「自分はウラル山脈の東に生まれ育った生粋のアジア人だ」と言うものの、(両親が反体制的なため僻地に追放されただけで)容姿風体は純粋な白人。後年は人間としての成熟から哲人の風情を見せるようになった外見も、若かったその頃はそれはそれは壮絶な凄みを漂わせていたものでした。堀りの深い眉と目、高い鼻、大きな耳、若い頃から短く刈り込んだ髪。試合に臨んで口を真一文字に結び、目を剥いたその姿は般若かはたまた赤鬼かという、日本人の考える「鬼神」のイメージを具現化した姿そのものだったのです


 そしてその試合スタイル。
 「カレリンズ・リフト」という言葉があります。最近では恐ろしいことにプロレスゲームの技にまで名前が入っているのですが、これは相手の背中をマットに付けることを目的とする競技・アマレスにおいて、有利な体勢を作るための技術の一つです。マットに這いつくばって動くまいとする相手の胴を抱え、腕力脚力を使って強引に宙に引っ張り上げ、そのままブリッジすることで相手の体を風車のごとく180度反転させて叩き付けるものです。相手を物のように地面から吊り上げるため「リフト」と呼ばれるわけですが…、しかしこれは日本人選手もよく見せるごく普通のアマレス技術であって、カレリンの使うそれが特別な形態をしていたというわけでもありません。だから初めてこの言葉を聞き現物を見た時も「なぜカレリンが使う時だけ固有名詞で呼ばれるんだ?」と不思議に思ったものです。…が、その「特別扱い」の理由は簡単でした。50キロ台60キロ台の体重の選手なら使って当然のこの力技も、100キロを軽く越える階級で使える人間などいなかったからなのです。
 地に足を付けたアンコ型の巨漢同士がぶつかり合う最重量級において、しかし姿が「赤鬼」のカレリンは、戦い方もまさに「鬼神」であったのでした。相手の攻撃をマットに根の生えたような太い脚でガッキと受け止め、何をしても微動だにできなくてひるんだ相手を俊敏な動きでマットに這わせる。普通の相手ならここからバック(背中)や腕などを取ってチマチマとポイントを取りに行くのはずの所です。しかしカレリンは細かく引っくり返しに来るどころか逆に上から押さえ付け、動けないでいる相手の胴に手を回し二人合わせて二百数十キロの体重を脚の力だけで一気にグイと持ち上げて、小荷物のように抱きかかえたまま仁王立ち!そして半径3メートルの弧を描いてブン投げる!
 プロレスあたりなら素直に投げられて身の安全を計ることもできますが、ポイントを取られたら終りのアマレスでは、頭や手を突いて体を支えようとするなど体を張って投げ切られるのを耐えようとします。アマレスラーというのはある意味スーパーマンで、(口にくわえた刃でオートマータをぶった切る鳴海じゃありませんが)相手と合わせた二人分の体重を首一本で支えてしまうだけの鍛え方をしているため、こういう場合も危険な落ち方をしながら平気で試合を続けたりするものです。しかしそれも軽量級が限度。二人合わせて200キロを越える体重を乗せハイスピードで頭から叩き付けられたらたまったものではありません。滅多に宙に吊り上げられる経験をしない重量級の選手には逆さ釣りにされただけでパニックに陥る者も多く、このカレリンズ・リフトが有名になってくると、頭から叩き付けられて選手生命を失うのを恐れて自分から引っくり返ったりマットの外に逃げ出して反則を取られるなどして自ら敗北を選び出したりする者が続出したといいます。恐ろしい容姿にちぎっては投げの試合ぶり。「カレリンの目を見ただけで敗北する」という言葉がレスラー仲間の間で語られたのも無理のないことだったのです。

 カレリンには「国際的な功績により国から与えられたマンションに引っ越してみたら新築したばかりのためエレベーターが動いておらず、仕方がないと言って130キロある大型冷蔵庫を一人で背負って8回まで階段を駆け上がっていった」というとんでもない逸話(それも事実!)があるように、「見るからに凄く、試合は輪をかけて凄い」という圧倒的な存在感によってその名を轟かせていたのでした。ゴツくて怖くて人間離れした迫力。『とまどい』という名の写真集にカレリンの名を入れたあのページのお遊びは、そうした「かけ離れたイメージの重ね合わせが生む笑い」を狙った軽いジャブだったのです。昔あった「アイドル伝説・光〜主演:伊集院光」というギャグのようなもので、したがってあの5ミリ四方程度の似顔絵(?)から「アリナミンA」のムキムキマンを想像するのは実に的確な判断であったと言えるわけですね。

 さて、カレリンのその後に筆を費やしてみましょう。
 カレリンの名が日本に轟いたのは、オリンピック史に残された不滅の記録によってではありませんでした。オリンピック史で彼に近い記録を残しているテオフィリオ・ステベンソンやフェリックス・サボン、アマレス界の雄アレクサンドル・メドベジのことを知っている日本人は決して多くはないでしょう。逆に本国でも知る人のほとんどないグレイシー柔術の人間などに高額ギャラを払ったりしているように、あるいは野球ではほとんど実績を残せなかった長島一茂が大物のような顔をしているように、マスコミに露出した人間が(記録上の実績に関係なく)名を成すのが日本のお国柄であるのです。
 98年2月、カレリンは(過日傷害・脅迫などの罪で起訴された「プロレスラー」)前田日明の引退試合の相手として来日、91年に新日本プロレスのリングでエキシビションを披露して以来2度目のプロレスマットに上がりました。引退試合の相手として「あのカレリン」をマットに上げることに腐心した前田は手を合わせただけで満足したのか、なす術もなく振り回されて判定負け。カレリンもアマレスでの試合の凄みをほとんど見せることのない淡々とした試合運びに終始しました。しかしこの一戦で「人類最強」のキャッチフレーズを背負って日本のカリスマに圧勝したカレリンは、日本国内においても実力相応の知名度を確保することになりました。プロレスファンや格闘技ファンと称する人間たちも、来たるシドニー五輪で「13年間無敗の王者によるオリンピック4連覇」という不滅の大記録が成るかを注視することになったのです。

 しかしすでに国会議員の公務を兼任していたカレリンに、かつての鬼神ぶりを求めるのは無理になっていました。欧州選手権、世界選手権においてカレリンはもはや対戦相手が投げられるより自ら敗北を選ぶという鬼神ではなくなっていました。カレリンズ・リフトはいっこうに決めることができなくなり、対戦相手ももはや恐れることなく「あのカレリンに土を付けた男」の称号を求めて目の色を変えて襲いかかって来ます。
 それでもなお、カレリンはカレリンでした。4大会連続旗手を務めて乗り込んで来たシドニー五輪で、カレリンは成功しなくてもリフトに挑み、そして1ポイントも許さずに勝ち進んで来ました。4連覇がかかった決勝戦、自ら望んだ組み合い方で両手のグリップが外れてしまったために遂に反則の1点を取られ、逆転しなければ敗北するという段になっても、なお小技でポイントを稼ぐのではなく豪快なリフトを狙って相手を持ち上げようとして…。
 そのたった1ポイントの差で4連覇を逃し、13年目の黒星を一つ喫したのです。
 梁師父ではありませんが、カレリンは最後までカレリンであることを貫いたのでした。(もっとも後になって「あんなアメリカ野郎に勝ちをくれてやるんだったら国内予選でロシアの同胞に負けた方が良かった」と悔しがっていたそうですが・笑)

 プロレスファンであり中国拳法を作品の中心に置く藤田組も知るところとなり、皆さんが愛読する作品のコマの隅で取り上げられた鬼神について振るって参りました駄弁、とりあえずこれにて締めといたします。
 最後はカレリン自身の言葉で締めくくらせていただきましょう。

「オフチニコフの『桜の枝』という作品で知って感銘を受けたのですが、日本にはわずかな単語で多くのことを表現してしまう詩があるそうですね。感情もそれに相当する言葉の存在を知っているから湧いてくるし、表現もできるものです。情緒の豊かさというのも心ではなく頭に原因があると思います。
 日本人は皆、一つの単語に多くの意味を込める能力があるのでしょう。」



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