ばーすでぃ!

それは、和やかな朝食の時間だった。
大きな事件が解決したばかりで、こうして平和な時間を過ごすのも久しぶりだ。
それはまた、「朝食をとるシャーロック」を久しぶりに見るということでもある。
コンサルタント探偵を自称するこの男、事件にとりかかると寝食を忘れてしまうというところがあり、とくに食べることのほうは、意図的に排除している傾向がある。
物事に熱心に打ち込むのは結構なことだと思うが、医者として言わせてもらうなら、「いいから食え!」と食事を強制したいところだとジョンは常々感じている。
しかし、平和な食卓は、シャーロックの爆弾発言によってあっという間に打ち壊された。
「そうだジョン、子供が出来たぞ」
「ふうんそうか・・・って、え?」
「子供だ子供。すばらしい!」
「・・・はい?」
「生命の誕生は神秘だ。唯一科学で解明できない分野であり、まさに奇跡」
あのー、もしもし?シャーロックさん?
いまなんとおっしゃいましたか?
近頃耳が悪くなったんだか、とんでもない言葉が聞こえたんですが?
ジョンはトーストを手に持ったまま、固まってしまった。
「君に言うかどうかは迷ったんだが、医者の見立てでは・・・」

ガタン!!

ジョンは、それ以上は聞いていられないとばかりに立ち上がった。
「なんでそんな大事件を、もっと早く話してくれないんだ、シャーロック!!」
「・・・ジョン?」
「見損なったぞ、誰の子供だ!」
「そんなことは、生まれてみないとわからない」
シャーロックは、しれっと答える。
「毛並みを見ないとわからないからな。でもまあ大体、心当たりとしてはあれとか、あのときのあいつとか・・・」
ジョンの顔が、真っ赤になったあと、みるみる青くなった。
人間の子供の妊娠期間は10ヶ月。
ジョンとシャーロックの間に体の関係ができたのは割合最近のことであるから、すでにその子供とやらがジョンの子供である可能性は全否定されてしまう。
それだけではなく、いま目の前で、誰の子供かわからないなどと、指を折りながら答えているシャーロックに、なんだかもう、どこから怒っていいのかわからない感情が渦巻いていて、ジョンは涙が出そうだった。
自分は、感情を弄ばれたんだろうか?
男の純情というやつを、踏みにじられたと思ったほうがいいのだろうか?
「・・・ジョン?なんでそんなに怒ってるんだ」
「いつだ」
「いつって?」
「いつ産まれる」
「医者の見立てではもうすぐらしいが」
「・・・ずいぶん目立たないんだな、わからなかったよ」
「ああ、僕もだ」
もう臨月だということか。
と、階段を上がってくる音がして、ハドソンさんの声がした。
「あら、今日は二人共早いのねえ。そうそうシャーロック、例の赤ちゃんの様子はどう?
きっと可愛い子が産まれるわよー」
「順調ですよハドソンさん」
この会話が、トドメだった。
ハドソンさんまで知っていたことだったとは!
「・・・ちょっと散歩に出てくる」
低い声でそう言うと、ジョンはいつものジャケットを引っ掛けて外に出ていった。




どこに行くあてがあるわけではない。
ただ、ぶらぶらと道を歩く。
何も考えたくないのに、シャーロックの顔ばかりが頭に浮かんで消えない。
もともと、どこで何をしているのかよくわからないところのある男だったのは事実だ。
そして、そんなシャーロックに惹かれてしまったことも。
正直、シャーロックの隣というポジションにいることに、多少優越感を持っていたことは認める。誰でもなく、自分だけがこの場所にいられるのだと。
しかし、だからといって、彼の全てを手に入れられると・・・少しでも、そんな気がしていたことは錯覚だったのだろうか。
シャーロックが、その身体の全てを自分に預けてきたとき、ジョンは確かにそう感じた。
自分の腕の中にいる彼は、自分しか知らないのだと思った。
独占欲と言いたければ言えばいい。
「ああもう!」
わかっているのだ。
ジョンには、これから取るべき行動が。
愛しているなら、彼を今更責めても何の解決にもならないこと。
起きてしまったことではなく、これからのことを考えるべきであること。
なにより、シャーロックが、「言うかどうか迷った」と言った、その一言のなかにある感情を、いまは信じるべきではないだろうか。
ジョンは決心した。
生まれてくる子供に罪はない。
愛情をもって育てよう。
決してどこかに養子に出すとか、虐待なんてことはしない。
普通の家庭で育つわけではないから子供のほうにも苦労はかけるかもしれないが、それは家族で協力しあって補っていこう。
ああ、決して酒乱にならないように、そこだけはしつけを厳しくしないといけないな。
最低限の常識や知識は身につけて、心は自由であってほしい。
「・・・あ、あまり自由だとシャーロックのようになっても困るのか・・・」
ジョンはもう、怒っていない自分に気づいた。
認めざるを得ない事実はひとつだ。
自分は、シャーロックに、甘い。


フラットに戻ると、シャーロックがコートを着るところだった。
「シャーロック?」
「ああ、ジョン、一緒に来てくれ。産まれるそうだ」
「ええ?」
ちょっと待ってくれ、心の準備が!!
「なにか持っていくものとかないのか?」
「病院にいけば全部ある」
「僕も立ち会うのか?」
「・・・いやか?」
一瞬、ジョンとシャーロックは目を合わせる。
「・・・行こう!」
そう言ったのは、ジョンだった。


タクシーは見慣れたバーツに着いた。
二人が降りると、モリーが駆け寄ってくるのが見える。
「よかった、シャーロック!もう産まれてるわ」
は?
「何匹産まれた?母体は無事か?」
はい?
「お母さんによく似た黒い子と、ぶちの子があわせて3匹。お母さんも無事よ」
「やはり父親はあのぶちの猫だったか。見られるか?」
「ええ、でもお母さんが興奮するからまだ子供に触らないでね」
・・・あのー、もしもし?


新聞紙やウエスを敷き詰めた大きめのダンボールのなかに、ミイ、とかわいい鳴き声が響いている。目のあかない小さな小さな命が、母親に体を舐められながら、ぬくもりを求めてしっかりと寄り添う姿はあまりに微笑ましく、愛らしい。
ああ。そうですか。
わかりました、わかりましたとも。
「・・・バーツのゴミ置き場で栄養失調でこの母親がふらふらしているのをモリーが見つけたんだ。妊娠がすぐわかったので、病院の片隅で出産させようということになって」
「・・・・・・」
「もともとこの猫はベーカー街をウロウロしていたので覚えていた。てっきり父親は最近まで一緒にいた白い猫の方だと思っていたんだが、その前に付き合っていたぶちのほうだったんだな」
「・・・・・・ミスター・シャーロック・ホームズ・・・・・・」
ジョンの、低い低い声が、シャーロックの名前を呼ぶ。
「なんだ、ジョン?」
深く深呼吸してから、ジョンは思いっきり声をあげた。
「紛らわしい言い方をするなーーーーー!!!!」


あの冷徹なシャーロックが、子猫の誕生などという事件に興味を覚えるようになったのはそれはそれで劇的変化だとは思うし、いい傾向ではあると認める。
しかし、しかしだ!
やっぱりこの男、言わなくてもいいことと、言わなければいけないことの区別がイマイチついていない!


「散歩に行ってくる!」
「さっきもそう言って出かけなかったか」
「もう一度行ってくる!!」

傷心のジョンがそのまま家出になだれ込んだのは、言うまでもない。












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