はじまりの夜(ひ)

けだるい空気の中に、うす暗闇が広がる。遠雷のように遠く通りの音がするが、耳障りなほどではなかった。
そんなものよりも余程近いのは互いの吐息だ。先程まで名前を呼びあい、ひとしきり戯れたあとなのだから当然だが。
ジョンは、傍らにいる男の柔らかい巻き毛を優しく撫でた。目を閉じていた男は、ふとその不思議な色をした瞳を開くと、誰に言うともなく呟いた。
「やっぱり、怖くない」
「シャーロック?」
「セックスなんて怖くない…怖くなかった」
そう。
今夜、二人は初めて身体を重ねた。
シャーロックの白い肌に触れたとき、その声が湿った歓喜を帯びたものに変わるのを感じたとき、そして二人がひとつになったとき、ジョンは自分がどれほどこの瞬間に自分が歓喜しているか思い知らされた。いや、歓喜などという大人しいものではなく、飢えていたとでもいったほうが近いだろう。むさぼるように求める気持ちに理性は押し潰される寸前だった。
「怖くなかったって、本当にかい?」
寝具にくるまって、子猫のように顔を覗かせているシャーロックに、ジョンは尋ねた。ジョンの心配はまさにそこにあったからで、正直なところ、相手に対する優しさなんてものを維持出来ていたのか、甚だあやしい。一方的に行為に及んでいなかったかと、それが気になってならなかったのだ。
「君が怖くなかったのなら少し安心したよ、僕は怖かったけどね」
ジョンが、少し笑いながら言うと、シャーロックはなんだかきょとんとしたまなざしをかえす。何を言ってるのかわからない、とその瞳は言う。
「僕ではなくて君が怖いことが何かあるのか、ジョン」
「そんなのは沢山あるさ」
そう言ってしまってから、ジョンはしまったと思った。
シャーロックの目が、みるみる、いつもの推理をはじめそうになっていたからだ。
「ああ、それは今だけはやめてくれ、シャーロック!」
「何を?」
「推理しようとしただろう?」
「いけないか?」
「頼むからやめてくれ」
おそらく、シャーロックが本気になれば・・・いや、それほど本気を出さなくても、ジョンの心情などあっという間に見抜かれてしまうだろう。しかし、仮にもいまは、初めて体の関係を作ったばかりの二人の語らいの時間なのだ。もう少し色気のある話に浸っていたいと思うほうが自然な成り行きではあるまいか?
もっとも、普段から色恋沙汰に興味を示さず、仕事と結婚していると言い続けてきたこの同居人にどう言えば、そういう雰囲気に持っていけるのかは実のところ、わからない。
でも。
「今まで、僕は僕を誤解してたんだ」
ジョンは、ぽつりと言った。
「誤解?」
シャーロックは、またきょとんとした顔だ。
「僕はずっと、君を守りたいと、助けたいと思ってきた」
「・・・・・・ジョン?」
「重要なのはシャーロック、君が無事であることで、そのためには手段だとか、誰が何をするのかとか、そういうことは関係ないんだと思っていた・・・いや、そう思い込んでいたと言うほうが正しいな。でも、そんなのは全部嘘だ」
ああ、とうとう言ってしまうな。
ジョンは、心でひとつため息をついて、胸にしまっておくつもりでいた言葉を吐き出した。
「ほかの誰かじゃだめだ。僕が、君を守りたかったんだ・・・シャーロック」
そう。

ボクハキミヲマモリタイ。

ではなく。

ボクガキミヲマモリタイ。

誰かにこの特権を譲るつもりなど毛頭ない。
幸い、ジョンには人を守護するための手段のいくつかが人生のなかで習得できている。
それらすべてを行使することに、全くためらいはないのだ。
医者としてであろうが、軍人としてであろうが、身近な同居人としてであろうが。
それらすべての立場も、能力も、なんだって利用してやる。
そんな貪欲な気持ちさえ、ジョンの中には生まれていた。
だから。
だから怖かったのだ。
この気持ちが、友情だとか、愛情だとかそういうものであるのならいい。
シャーロックが普段言うところの「あまり使われていない穏やかな」脳とやらに収まっていてくれるのであれば、問題はないと思っていた。
しかし、あらゆる気持ちに先んじて、暴走しかねないものに育ち始めたことに気づいたとき、ジョンは自分で自分に驚いたし、また、深く悩んだのだ。
このままでは、いつか。

いつか、傷つけるかもしれない。
暴走する思いを、止められなくなる日が来るかもしれない。

しかし、もしもシャーロックを傷つけるものがあるなら、それがジョン自身であったとしても許すことはできないだろう。

危うい感情を抱えたままでいたジョンに、シャーロックは全てを預けてきた。
きっかけはほんの些細な、無視してしまえばいつもの日々がめぐるだけのことで、無論その選択肢はどちらの側にもあったと思う。
無意識に手を重ねて、お互いの手のぬくもりを感じたこと。
パソコンのモニターを覗こうとして、二人の顔が、吐息を感じるほど近づいたこと。
そんなのは、いつもあることだったはずだった。

ベーカー街中の窓が残らず吹っ飛んだとしても、ジョンはこれほど驚かなかっただろう。
先にキスしてきたのは、シャーロックの方だったのだから。

「頭を使えジョン。わからないか?」

シャーロックはそう言って、笑った。
ジョンですら、初めて見るような、笑顔で。
その時になって初めて、ジョンはふたりの間には共有できる感情があったのだと気づいた。
どこまでも、近づきたいのだという、思い。
それを愛情と呼ぶのかどうかは、まだわからないけれど、絡み合い、ひとつになることへの抵抗感はなかったし、喜びすら感じた。
指を絡めて、腕をまわして強く抱きしめ合い、ぬくもりを感じあった。
すべてをまっすぐに見つめ返してくるシャーロックの瞳が、ジョンを求めていた。
嬉しかった。
ただただ、嬉しくて。
だから、心に沸き起こる嵐のような感情を、制御できたか自信がないのだ。




「ジョン、君は優しい」
「え?」
「言葉通りの意味だ。もっとつらくされると思ってた」
「シャーロック・・・」
シャーロックは、目をそらさずに、少しいたずらっぽく笑って言った。
「ああ・・・でも少し眠りたいな。想像していたより疲労してる」
え?
ああ、それはちょっとまずい・・・。
寝具にくるまり直して、本気で睡眠モードに入りかけているシャーロックを、ジョンは慌てて揺り起こした。
「シャーロック、眠る前にシャワーを使ってきたほうがいい!」
「ん・・・?汗を流すなら別に・・・」
「ええと、そうじゃなくて・・・」
非常に言いにくいし、元はといえばジョンのせいなのだが・・・。
基本的に、自由な行動に制限をかけられると不機嫌になるシャーロックが、入眠を邪魔されて露骨に嫌そうな顔をしたが、やがて思い当たることがあったとみえて、自分から体を起こしてみせた。
「そうか、ジョン。つまりそういうことなんだな」
「わかってくれたか」
「君が僕の体の中に・・・」
「言わなくていいから!!!!」
自分の所業とはいえ、人から面と向かって言われて羞恥を感じない程、ジョンは鈍感ではない。慌ててシャーロックの言葉を遮ってから、シャーロックに言葉の選別とか言わなくていいこととか、まだまだ覚えてもらいたいことは山ほどあるなと痛感する。
もっとも、こんな会話が自分たちらしいのかもしれないと、ジョンも少し思いはじめてしまっているところが、慣れとは恐ろしいものでもあるのだが。

結局、なかなかベッドを離れようとしないシャーロックを、ジョンが腕を引っ張って連れて行く。
情事のあとのピロートークは、なんとも色気のない会話で終わっていった。
ベッドを離れれば、いつもの二人だ。
やれ、世の中のほぼ9割はバカが占めているだの、じゃあそのバカに腕を引っ張られてバスルームに連行される気分はいかがかだの。
いつもの二人らしいやりとりが聞こえてくる。
やがてかすかな水音がして、言葉がやんだ。
何が起きているのかは、神様も気になさらない。





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