暗闇の天使

戦場にいたときは、こんなことは日常茶飯事だった。
昨日バカ笑いをしていた相手が、今日、冷たくなっている。
いや、それどころか、さっきとなりに生きていたはずの戦友が吹っ飛ばされる。
生と死の境界線は非常に曖昧で、一日が終わる頃、やっと、自分は今日を生き延びたのだと実感する。
そんな毎日を過ごしてきたはずだった。
軍医として、救えない命を星の数ほども見送って、心身ともに傷ついて帰国してきたのだから。
いまさら、命は大切にしろとか、綺麗事を言うつもりなどなかった。

シャーロック・ホームズ。
彼との出会いが、なければ。

どこまでも失礼で、無粋で、はっきりいうなら、嫌な奴だった。
人には、そっとしておいてほしいことがある、ということが、シャーロックには多分生涯理解できないに違いない。
どんな物事にも確かに答えはあるが、なんでもかんでも、数学の証明問題のようにきっぱりと答えを出さなくたっていいのだということが、シャーロックにはわからない。
だから多分、人付き合いもうまくいかなかったのであろうし、孤独を愛するようにもなっていたのだろうと思う。
でも、それはシャーロックの表面的な部分にすぎないことを、ジョンはすぐに見抜いてしまった。
文句を言われれば拗ねるし、褒められれば喜ぶ。
そんな少年のような素直さが、あのすらりとした長身の身体の中にはずっといたのだ。
膨大な知識を記憶し、自分と同じレベルで会話出来ない他人を見下す言動の下に、ずっと。

それに気づいてしまった。
だから。
だから、離れるわけにはいかなかった。
責任とか、義務とか、そんな言葉では片付けられないもの。
もっと心の奥底で、つながりを求めるなにかがあった。


そして、やがてそれは、形になった。
ジョンとシャーロックは、身体を重ねた。



「僕は、怒ってるんです」
その言葉に嘘はなかった。
正直、頭に来ている。
シャーロック、これは、こんなことは、本当に最低だ。
人は確かに、生まれてくるときも、逝く時も、たったひとりだ。
だけれど、君のこれは、考えられる限りで最悪の終わり方じゃないか!

シャーロックは、ジョンを遠ざけたまま、たったひとりで、飛んだ。




あの瞬間を、何度も、何度も、夢に見る。
あるいは、違う場面のこともある。
バーツの屋上に立つ、シャーロック。
ジョンは、下から見上げていたり、屋上への階段を必死に駆け上がっていたりする。
しかし、しかし、どんなに近づこうとしても階段を上りきって扉を開けたところで。
どんなに止めようとしてもなぜかバーツの建物にいつまでも近づけなくて。
結果、シャーロックがそのコートをひらめかせて飛ぶのを、止められない。
汗をびっしょりかいて飛び起きると、もう、眠ることなどできないのだ。
まだ実感などわかない。
シャーロック・ホームズが死んだ、なんて。
まだ、221Bの扉をあけて階段を上がったら、シャーロックがいつものはた迷惑な実験に没頭していそうな気がしてならない。ジョンの顔を見るなり、ペンをとってくれと1時間も前に言ったぞ、と顕微鏡から目を離さずに言いそうだ。
そしてジョンは憮然としながらもペンを投げてやる。何か食べ物を求めて冷蔵庫を開けたら、「先客」とご対面して慌てて冷蔵庫の扉を閉じ、無駄と分かっていてもシャーロックに抗議する。もちろん改善されることはない。
・・・そんな日々が、また戻ってきそうな気がして。
シャーロックは、いまどこにいるのだろう。
その場所と、今ジョンが生きて立っている場所の間は、それほど離れてはいないような錯覚に陥る。
その気になれば、ひょいっともどってきてくれそうな。
そして、逆に、シャーロックのいるところに、行こうと思えば、それは案外簡単であるような。
自殺願望とは違う。
ただ、遠くへいったという感覚が起きないだけだ。
本当にもう、二度と会えないのだという感覚が身につかない。


221Bを出ようと思いついたあとは、案外心がすっきりした気がした。
もともと荷物が多いほうではなかったし、引越しの支度は楽だった。
なにより、何か用事に忙殺されている間は、何も考えないでいることができるぶんだけ、気が楽だった。

明日には、このフラットを出る。
今夜が、ここで過ごす最後の夜だった。
早めにベッドに入ったが、明日は寝不足してはいけないと思い、珍しく安定剤を飲んだ。
まんじりともせず夜を明かし、昼間に眠気がくるのを避けようと思ったのである。
作戦は功を奏し、ジョンはまもなく眠りにおちた。


「ジョン・・・」
懐かしい、声がする。
いつも聞こえていた、自分の名前を呼ぶ、声。
「ジョン」
ああ、なんだよ、シャーロッ・・・
「!!」
声の主に思い当たったジョンは、目を見開いて驚いた。
二度と聞こえるはずのない声が、自分の名前を呼んだことに気づいたからだ。
そして、目を開いたジョンは、さらに目を大きく見開いた。
ギシ、とベッドをきしませて、眠っていたジョンの身体にそっと覆いかぶさるようにして顔を覗き込んでくる影・・・それは。
忘れるはずのない。
忘れたことなどない、ダークカラーの巻き毛と、吸い込まれそうな色の瞳。
「シャーロック・・・・・・」
なんだか、まだ意識がはっきりしないのは、寝る前に飲んだ安定剤のせいか。
思考がはっきりまとまらない。
「ああそうだ、ジョン。僕だ」
シャーロックは、真っ白いシーツを首までしっかり巻きつけただけの姿だった。
そういえば、一度、この姿のままでバッキンガム宮殿まで運ばれてしまったことがあったか。
「シャーロック・・・どうして・・・今まで・・・・・・」
言いたいことなんてたくさんあるはずなのに、何も出てこない。
ああ、こんなことなら薬なんて飲むのじゃなかったと、ジョンは心でいらつく。
シャーロックは、そんなジョンを見て、ジョンしか知らない笑顔を見せる。
そして、そうっと、唇を重ねてきた。
ついばむような、口づけ。
それだけ。
ジョンは、おそるおそる、腕を伸ばして、シャーロックに触れた。
シャーロックは、消えない。
そうわかった途端、ジョンは、シャーロックを抱き寄せた。
ただただ、抱きしめたかった。
触れていたかった。
帰ってきてくれたシャーロックを。
「シャーロック・・・シャーロック・・・」
「ジョン・・・」
夢でもいい。これが幻でも。
ジョンのなかに喜びが沸き起こる。
シャーロック、君に会いたかった。
どれほど抱き合っていたのだろう。
長いあいだであったようにも感じるが、実際にはそうでもないのかもしれない。
ジョンは、シャーロックの顔を見たくて、少し、身体を離した。
すると、シャーロックが、ひどく切ない表情のまま、ジョンを見つめる。
そして、ジョンの耳を舐めたかと思うと、その耳元で囁いた。
「ジョン・・・」
ジョンは、くす、と笑う。
相変わらずだな、シャーロック。
これは、シャーロックのほうから誘うときの仕草だった。
ジョンは、少しの間、目を閉じてから目を開き、そして、言った。
「綺麗だ、シャーロック」
シャーロックの顔を、そうっと、まるで触れたら壊れてしまうなにかに触れるように撫でながら、ジョンは続ける。
「僕はいつでも君を・・・君のことを・・・・・・」
不思議と、ジョンの心は安らいでいた。
「だから、今は抱けないよ・・・・・・」
そして、もういちど、今度はジョンのほうから口づけた。
ああ、やっぱり薬なんか飲むんじゃなかった。
意識がどんどん遠ざかっていく。
シャーロック、言いたいことはまだあるんだ。
シャーロック・・・・・・・・・。


次の朝、まず、ジョンは自分がオーバードーズしていたことに驚いた。
1錠でも充分な効果のある安定剤を、何を考えたのか1シートぶんまるまる飲んでいたのだ。
寝起きはすっきりしているから、もう効果は薄れているのだろうが、ベッドに入ってからの記憶が全くない。
不思議なことに、ベッドの脇に、シーツが丸まって落ちていた。ジョンのベッドのものではない。
自分は昨日の夜どんな奇行に走ったのか知らないが、覚えていないというのは幸いなことなのか?
携帯の履歴を見たが、無意識に誰かと会話をしたとか、そういうことはないようだ。
しかし・・・。
なにか、なにか引っかかる。
「シャーロック・・・」
ふいに、つぶやいてみて、何かに思い当たった。
そう、シャーロックだ。
彼に関するなにかだった気がする。
それも、悪いことではない、何か。
「なんだろう・・・・・・?」
いい夢でも見たんだろうか?
そういえば、今朝は寝覚めが本当にいい。
こんなにすっきりと目が覚めたのは久しぶりだ。
本当に、いい夢を見たのかもしれない。

シャーロック、誰がなんと言おうと、僕は君を信じてる。
口に出すことが出来ない人生を歩むとしても。
忘れてはいけないこととして、想い続ける。
だから。
だから。
夢の中でもいい。
帰ってきてくれ。
いつか、僕がそこに行くまで。


「気が済んだか、シャーロック」
マイクロフトの声は、いつものように、感情が読めない。
「精神安定剤で眠っているジョンにさらに薬を追加して投与、ほとんど朦朧としている状態での再会は楽しかったかね?」
シャーロックは、兄の顔を睨むが、そんなことでひるむマイクロフトではない。
「ジョンの言動の意味がわかるなら、自らの行動も考えることだ、シャーロック・ホームズ。少なくともジョンは、お前を守ろうとした」
「守る?」
「そうだ。ジョンはお前を守る。多分これからもな」
シャーロックは、コートの襟を立てながら、それでも何も言い返せなかった。
「わからないのだろう?」
「そんなこと・・・・・・!」
「その証拠だ、先ほどからお前は、ずっと涙を流している」
マイクロフトに言われて、シャーロックははっと顔に手を当てて、頬が濡れていることに気づいた。
「なんだ・・・これは・・・」
「泣くということだ」
「泣く?僕が?」
「ああ、そうだ。お前は今、泣いている」

ジョン。
必ず、君の元に帰ろう。
君が僕を守るというなら、僕は君を守ろう。
そのための時間を、どうか許して欲しい。
・・・いや、許さないで欲しい。
必ず帰るから。

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